いま学校の授業も、従来の先生から一方的に教わるスタイルから、自発的に発想し判断力や志向性を育むことに主眼を置く「アクティブラーニング」に変るべきだとの動きが活発になっていました。
これはまさに、上達屋が30年間標榜し続けてきた「選手が主体の学びのスタイル」と重なります。
「夢を追いかけるな、夢中であれ!」
夢はつかまえると、ただの現実(日常)に成ってしまいます。すると、また次の夢を見つけなければ幸せにはなれない。またそれをつかんでしまえば、また日常化するだけ。そしてまた・・・・
この繰り返しはいつまで続くのでしょう?
そうやって夢を追いかけ続ける人生にどんな充実感があるのでしょう?
手塚は若い頃、ある成功者から次のような言葉を聴きました。
「手塚君。私ね、夢を追いかけ続けていると、夢を追いかけているのか?それとも夢に追いかけられているのか?最近わからなくなってきた。。。」
この方は、とても著名な方で富も名誉も、はたからみれば充分なはど手入れていました。ただそれでも次の夢を見つけ追いかけ続け、結果50代の頃脳出血を負い半身に痺れが。それでもガンバルことをやめられず、心の病も併発してしまいました。
手塚は「夢って、ガンバルってなんなんだろう?」と疑問を抱き始めます。
それは、上達屋を開設し、多くの親御さんとお子さんとの関係に触れることが増え、より大きな関心事になっていきます。
あいさつ代わりに「ガンバレッ」を連呼する大人たち。加えて子どもに「将来何になりたい?」と、夢を抱いて邁進することを子どもにとっての当たり前のことのように覆いかぶせたがるわが国の風潮。
そして、そういう社会に身を置くことしてできず、これ以上なにをどうガンバレばいいのかわからず心までヘトヘトに疲れ果てた子どもたちの沈んだ表情に触れるごとに、子どもとスポーツと親と周辺の大人の関わり方に新たな発想の必要性が浮かび上がってきます。
これは健全ではない。
ヒントはスポーツがヘタでもドンくさくてもその技量に関係なく「夢中」になっている人々の存在でした。また、スポーツ以外でも、分野に関係なくそのことの中にどっぷりとつかっていること自体をうれしそうに語る人たちも同じ。夢中で遊んでいる人たちは、みな良い顔をしています。
同じ”夢”でも、夢を追いかけるのではなく、”夢の中”に入って楽しみまくるだけ。上手なことにこしたこはとないけれども、それは本質的なことではなく、とにかくそれをやっていることがその時間が無性にうれしい。
やめろと言われてもやり続け、疲れをしらない子どものように夢中になって遊び続けることの幸福。
もしかすると、人として生まれて来た意味はこの夢中になれることに出会うためにあるのではないか?
おそらく、こういう人たちとっては、”ガンバッテね”の言葉がけはあってもなくても関係ないでしょう。だって、他人が何言おうと耳に入らないほど夢中のだから。
もしこのとき、最高の上達メソッドがそばに準備できていて、その最高に楽しい時間の中にお供することができれば、これは間違いなく上達ベクトルは上向きになるはずです。
将棋の世界の藤井聡太君のように、将棋のことを考えているときが至福のときという状態に入ってしまえば、親や周りからの「もっとガンバッた方が自分のためなんだから・・・」という言葉はいらなくなります。そのためにも、できるだけ早い時期に夢中になれることに触れさせる機会を用意してあげたい。
それが見つかれば、自ら望めば手が届く場所にその分野の上達虎の巻(操育プログラム)も転がしておいてあげたい。そうなれば、どんどん上手く強くなっていくことは自然の流れで、勝っても勝っても寝ても覚めてもまたそれがやりたくなり、やがてその分野で一流になる。
一流となっても、勝つことよりも夢中で続けていることの方が本質なので、生涯掛けてその道を楽しみながら極めることができ、ガンバッてないのでバーンアウトシンドローム(燃え尽き症候群)の心配もない。
もしかすると、子どもに対する親や周辺の大人の役目とは、夢を持たせること、それに向かってガンバラせること、教えることなどではないのかもしれません。
そうではなく、子どもたちにこのポジティブな連鎖を引き起こす”夢中力”が沸き起こるような出会いを用意してあげること、それこそが親や周辺の大人の役目ではないかと考えます。
→ 上達屋のメンタル